海軍次官〜連合艦隊司令長官(1936〜1940年)

海軍次官から連合艦隊司令長官時代の人物像と動向を紹介します。


海軍次官に就任

1936年(昭和11年)、山本五十六は海軍次官に就任しました。
1936年といえば、あの“二・二六事件”が起きた年です。

次官就任後、海軍大臣に米内光政、軍務局長に井上成美が就き、山本五十六はますます精彩を放つことになります。
この米内海相、山本次官、井上軍務局長という3人の結束により、海軍は日独伊三国同盟の防波堤となりました。
事態が進まないので、右翼が山本五十六へ脅しをかけてきたりしましたが、当の山本は平然としていました。
この頃に書いた遺書が残っています。


述 志

一死君国に報ずるは素より武人の本懐のみ、豈戦場と銃後とを問わんや。
勇戦奮闘、戦場の華と散らんは易し。
誰か至誠一貫俗論を排し斃れて已むの難きを知らむ。
高遠なるかな君恩、悠久なるかな皇国。
思はざる可からず君国百年の計。
一身の栄辱生死、豈論ずる閑あらんや。語に曰く、
丹可磨而不可奪其色、蘭可燔而不可滅其香(丹は磨くべくして、その色を奪うねからず。蘭は燔(やく)べくして、その香を滅すべからず)と。
此身滅す可し、此志奪ふ可からず。

昭和十四年五月三十一日
於海軍次官々舎 山本五十六


たとえ死んでも自分の態度を変えることはない、という揺るぎない信念に満ち満ちています。
まさに、戊辰戦争を戦い抜いた越後長岡藩の歴史的風土がここに見えます。

この1939年(昭和14年)に、独ソ不可侵条約が締結されたことにより、三国同盟問題も無意味となり、当時の平沼内閣が総辞職し、米内、山本、井上という海軍体制も崩れることになりました。


ついに連合艦隊司令長官就任

山本五十六は、海軍次官から連合艦隊司令長官というポストに就くことになります。

この人事は、米内光政が山本の身の危険を案じ、いったん海上に転出させ、次に備えさせたというのが通説となっています。

連合艦隊司令長官となった山本は、起案書類の決裁なども気持ちよく決裁し、部下や身辺の従兵のことをよく考えてくれる長官であったと言います。

1940年(昭和15年)、山本五十六が次官時代に力を注いだ日独伊三国同盟がついに締結となりました。
この防波堤となっていた山本はどういう気持ちであったのでしょうか。

この結果、日米関係は悪化し、太平洋戦争へ突入していくことになります。


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