アメリカ滞在~航空本部長時代(1919~1933年)

アメリカ滞在から航空本部長時代の人物像と動向を紹介します。

はじめてのアメリカ駐在

1919年(大正8年)、山本五十六はアメリカ駐在を命ぜられ、いきなり新婚家庭を留守にすることになります。

最初のアメリカ滞在は1921年(大正10年)までの約2年間で、英語をマスターするのが主な目的でしたが、それ以上に、アメリカという大国の底力を見せつけられることになりました。

アメリカ滞在中の公務としては、国際通信会議予備会議の委員随員を務めました。


また、山本五十六は、当時日本が建設していた「八八艦隊」と言われる大艦隊の原動力となる「石油」に着目していました。

アメリカ国内の製油所の視察や、石油関係の文献・資料を読み、新聞も数十紙と読んでいました。

海軍も石炭から石油という時代に、石油の出ない日本の今後について、考えていたようです。

アメリカの石油関係の設備や流通を目の当たりにして、その悩みは深かったに違いありません。

霞ヶ浦航空隊教頭兼副長、ロンドン海軍軍縮会議全権委員随員等を歴任

1921年(大正10年)、帰国した五十六は、海軍大学校の教官となります。

海軍大学校では、アメリカ滞在中に勉強した石油のことや、航空機の重要性などについて講義しました。


1924年(大正13年)、五十六は霞ヶ浦海軍航空隊教頭兼副長となりました。

五十六の優しく、厳しく、合理的で人情に通ずる仕事振りは、部下たちの心を掴みました。


1925年(大将14年)には、米国在勤大使館付武官を命ぜられ、ワシントンに駐在します。

約1年間アメリカにいましたが、リンドバーグの大西洋横断飛行の成功などの影響もあり、その間は「航空」についての研究を深めました。


1928年(昭和3年)、五十六は「五十鈴」「赤城」の艦長を務め、1929年(昭和4年)軍務局に勤務し、ロンドン海軍軍縮会議の全権委員随員としてイギリスに渡ります。

いよいよ海軍航空本部長に就任

帰国後、海軍内の論争をよそに、航空優先の軍備を進めることになります。

1930年(昭和5年)には、海軍航空本部技術部長に配属され、このポストで3年間、航空機工業の充実と新機種の開発を行いました。


1933年(昭和8年)に第一航空戦隊司令官、1934年(昭和9年)にロンドン海軍軍縮会議予備交渉日本代表、1935年(昭和10年)に海軍航空本部長に就任します。


航空本部長の主な役割として、航空のための予算の獲得がありました。

五十六は、「国防の主力は航空機である。海上の船舶はその補助である。」と主張して、海軍の大鑑巨砲主義と闘いました。

飛行機の攻撃力が威力を増大するはずだから、今後の戦闘では、戦艦は無用の長物になる、という持論を展開していきました。


  

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