山本五十六の略年譜(1884~1943年)

山本五十六の60年の波乱に満ちた人生を略年譜で振り返ります。


●1884年(明治17年)

新潟県長岡市で、長岡藩士、高野貞吉の六男として生まれる。


●1890年(明治23年)

阪之上小学校に入学。


●1901年(明治34年)

海軍兵学校に2番の成績で合格。


●1904年(明治37年)

海軍兵学校を11番の序列で卒業。


●1905年(明治38年)

装甲巡洋艦「日進」乗組。日本海海戦に参加。この時、左手の指2本を失う。


●1913年(大正2年)

父の高野貞吉と母の峯子死去。


●1914年(大正3年)

第一次世界大戦が勃発。海軍大学校に進学。


●1915年(大正5年)

長岡藩第一の名家、山本家を相続。


●1918年(大正7年)

旧会津藩士の娘の三橋礼子と結婚。


●1919年(大正8年)

アメリカ駐在。


●1921年(大正10年)

アメリカより帰国し、海軍大学校の教官となる。


●1924年(大正13年)

霞ヶ浦海軍航空隊教頭兼副長。


●1925年(大将14年)

米国在勤大使館付武官を命ぜられ、ワシントンに駐在。


●1928年(昭和3年)

「五十鈴」「赤城」艦長。


●1929年(昭和4年)

軍務局に勤務、ロンドン海軍軍縮会議の全権委員随員として渡英。


●1930年(昭和5年)

海軍航空本部技術部長に配属。


●1933年(昭和8年)

第一航空戦隊司令官。


●1934年(昭和9年)

ロンドン海軍軍縮会議予備交渉日本代表。


●1935年(昭和10年)

海軍航空本部長に就任。


●1936年(昭和11年)

二・二六事件。海軍次官に就任。


●1939年(昭和14年)

独ソ不可侵条約締結。連合艦隊司令長官に就任。


●1940年(昭和15年)

日独伊三国同盟締結。


●1941年(昭和16年)

真珠湾攻撃。


●1943年(昭和18年)

ブーゲンビル島にて戦死。享年60。


  

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