山本家の相続~結婚(1914~1918年)

長岡藩の名家、山本家の相続から結婚までの人物像と動向を紹介します。

長岡藩の家老職の家、山本家の相続

日本海海戦後、山本五十六は巡洋艦や戦艦、海防艦、駆逐艦と次々に配置転換があり、忙しい日々を送っていました。


世の中が大正という変革の時代を迎えていた1913年(大正2年)、大尉となっていた山本五十六は、父の高野貞吉と母の峯子を半年の間に失いました。


翌1914年(大正3年)、第一次世界大戦が勃発します。

この年、山本五十六は海軍大学校に進学しています。


1915年(大正5年)、学生のうちに32歳になっていた五十六は、山本家を相続することになります。


山本家は、長岡藩第一の名家で、代々家老職の家柄で、戊辰戦争において、軍事総督河井継之助とともに戦った次席家老の山本帯刀の戦死後、後嗣がなく、そのままとなっていました。


山本帯刀は、河井負傷後に藩の総司令官として会津に転戦していましたが、西軍に捕えられてしまいました。

その時、西軍側は山本の人物を惜しみ、降伏を勧めましたが、山本帯刀は、「藩主、我に戦いを命ぜしも、未だ降伏を命ぜず。」と言って、降伏の勧めを承知せずに斬られた人物です。


まだ長岡中学校に通っていた頃、五十六少年は、河井継之助と山本帯刀のお墓を度々訪れ、この2人の大先輩を心の支柱にしていたと言います。

それを思えば、この山本家の相続については、どんな思いでいたのでしょうか。

旧会津藩士の娘との結婚

1918年(大正7年)、山本五十六は旧会津藩士の娘の三橋礼子と結婚します。

五十六35歳、礼子23歳でした。

山本五十六が、結婚の条件として仲人に出した条件はこの2つと言われています。


(1)御奉公のため、世の常の人の如く、妻子にかまっておれぬこともあるかもしれないこと。

(2)公務については、絶対に口を出さないこと。


  

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